長崎の風景を絵はがき感覚でパッケージにした

「長崎景観クルス」好評です。
“長崎景観クルス” 

軍艦島

クルス4枚入¥324 (税込)

148×100×20mm ちょうどハガキサイズです。

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 祝!世界遺産登録  

「明治日本の産業革命遺産」

「 軍 艦 島 」世界遺産登録決定‼︎

日本の近代化を支えた海底炭坑の島

軍 艦 島

コンクリートで塗り固められた凄みあるその姿は洋上に浮かぶ要塞か、はたまた軍艦か。かつて海底炭鉱で栄えた長崎市端島(はしま)は「軍艦島」の名で知られ、全国の廃墟マニアたちを惹きつけてやみません。というわけで、私もツアーに参加することに。あいにく当日は小雨で波が荒いため上陸不可で、ぐるり周遊クルーズとなってしまったのは残念!

長崎景観クルス“軍艦島”パッケージで使用中の写真です。
長崎景観クルス“軍艦島”パッケージで使用中の写真です。

東シナ海に浮かぶ

「黒ダイヤ列島」最南端の島

長崎港を抜けて中間地点の伊王島にさしかかるあたりで「今は人気のリゾートであるこの島もその先の高島もかつては炭鉱の島だった」と船内アナウンスが。実は長崎の東シナ海側の海底には良質な炭田が広がっており、20世紀には多くの島が炭鉱で栄え、黒ダイヤ列島を形成。その最南端が「軍艦島」でした。それにしても船の揺れること揺れること。

岩礁からコンクリートの人工島へと変貌

出港から約40分。ああっ、見えてきました! 岩場に緑が茂る無人島(中の島)のその先に無機質な島影が。島というにはあまりにも異質なその姿。やっぱりすごい迫力です。文化7年(1810)に漁師が岩礁に露出していた石炭を発見したのがその始まりで、本格的な採掘が始まったのは明治23年(1890)。その後、規模拡大をはかるたびに岩礁に過ぎなかった端島は、周りをコンクリートで塗り固められて緑なき人工島へと変貌していったのです。

洋上の極小空間にも、

住めば都の暮らしあり

徒歩で20分もあればひと回りできるこの狭い島の最盛期の人口は約5300人。林立する高層住宅群は波の荒い外海側に設けられ、鉱場を守る防波壁の役目も果たしていたとか。でも、そこには商店あり映画館あり、学校も病院も郵便局も日々の暮らしに必要なものは完備され、本土からは隔絶されつつも人々はそれなりに豊かな生活を送っていたそうです。船は島の周りをゆっくり速度を落として航行。ここで島をバックに記念撮影です。

 


閉山から40年の歳月が流れ

八幡製鉄所へ原料炭を供給するなど日本の近代化を支え繁栄を極めた端島炭鉱も、石油エネルギーへの転換で昭和49年(1974)に閉山。“乗組員全員が下船”したあと、軍艦島は長い眠りにつき、人々の暮らしの爪痕を残したまま建造物群はひたすら風化の一途をたどります。

世界文化遺産登録への取り組みも

そして、平成21年(2009)に観光上陸ツアーが始まります。初年は55000人が上陸。同23年までの軍艦島クルーズによる経済波及効果は65億円。現在、世界文化遺産登録への取り組みも始まり、保存にかかる費用の最新試算は約50億円。ふ~っ、すごいですね。石炭産業華やかりし時代の夢の跡―。帰りの航行は波に逆らわず快適で、イルカの姿も見受けられましたよ。

2014年3月記

※軍艦島上陸ツアーは現在5社によって毎日運航。天候により上陸不可の場合も。

もともと波の荒い海域なので船酔いにはくれぐれもご注意を。



世界遺産 長崎・軍艦島  「軍艦島を世界遺産にする会」坂本道徳さん 2015年インタビュー) 

一般の人たちにとっては「軍艦島」ですが、

私たちかつての住民にとっては故郷「端島」なんです。

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」が2015年7月に世界遺産に登録され、その資産のひとつである長崎市の「端島炭鉱(軍艦島)」の人気が沸騰しています。観光クルーズの予約が連日満杯という状況の中、「軍艦島を世界遺産にする会」で長年奮闘してきた元島民の坂本道徳さんの故郷への今の思いとは―。(2015年8月取材)

坂本道徳さんは筑豊生まれで小学校6年の時に家族と共に端島に渡り、1974年の炭鉱閉山までの8年間をこの島で過ごしました。「島に来て一番驚いたのは高層7階建ての小中学校の校舎です。今でもこんな高い校舎ほかにないでしょう。子どもの遊び場も高層アパートの屋上。夏は夜遅くまで夕涼みして、朝帰りしたって怒られない。どの部屋も鍵がかかっていることはないし、窓は全開でプライバシーなんてない。ふんどし姿で歩いているおじさんもいて、端島全体が家族のようなものでした」。


坂本さん一家が住んでいた高層の鉱員アパート。

大正時代に日本で初めて鉄筋コンクリート造の集合住宅が建てられたのはここ端島だったそうだ。


その坂本さんがやむにやまれぬ思いでNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」を立ち上げたのは2003年のこと。炭鉱閉山後は企業誘致もままならず、荒れるばかりの無人島は一時産業廃棄物の島になりかけたことがありました。かつては三菱の所有であり、それが譲渡されて今は長崎市の所有に。自分たちの故郷でありながら自分たちの手が届かないというもどかしさがずっとあって、「せめてゴミの島になるのだけはくい止めたい」という思いから始めた活動だったそうです。だから夢として「世界遺産」を旗印には掲げたけれど「まさか本当にそうなるとは…。正直驚きました」。会の立ち上げから12年後の奇跡のような出来事でした。

端島は高層の炭鉱住宅も、病院も、学校も、ライフラインである水もガスもすべてが炭鉱産業のためだけにつくられた人為的な町でした。だから、炭鉱閉山となれば、すべての機能が停止。当時2000人いた全住民たちは3ヵ月という短い期間で住み慣れたこの島にいろんな想いを残したままあわただしく退去しなくてはならなかったのです。その後立ち入り禁止の無人島となった端島は、そのまま自然に朽ち続け、置き去りにされたテレビやミシンや三輪車まで、錆びつき崩れながらも40年前の暮らしの痕跡をそのままに残しています。坂本さんはこれを「凍りついた時間」と表現。かつてのわが家に残されていた勉強机の引き出しから鉛筆を見つけた時の感動を語る元住民の坂本さんにとってこの「凍りついた時間」は切なくもあり、愛おしくもありそこには複雑な感情が交錯します。

「えさは少しでいいから 金魚とことりをおねがいします」 

ある部屋のふすまに書き残された子どもの伝言。わけもわからず親に連れられ、あわただしく島をあとにしたのだろう。


海に浮かぶ人工島のその特異な姿や廃墟という言葉の響きに惹きつけられて多くの観光客が軍艦島クルーズに押し寄せます。その数1日1000人と言いますから、今や長崎観光の目玉のひとつといえます。ただ、坂本さんには目の前の風景だけの観光に終わって欲しくないという気持ちがあります。「端島は明治、大正、昭和と良質な石炭を産出することでわが国の重工業の発展を下支えしてきました。観光客の皆さんには、日本の近代化、そして戦後復興にこの島が果たした役割をぜひ知ってほしいと思うのです」。そして、この“廃墟”と呼ばれる空間の中には、かつて華やかなりし石炭産業を担った人々の楽しく生き生きとした暮らしがあった。そんなところにまで思いを馳せてもらえれば、と。

■坂本道徳(さかもとどうとく)さん

1954年筑豊生まれ。小学6年から1974年の炭鉱閉山までの8年間を端島(軍艦島)で生活。25年ぶりの同窓会で風化する島の姿を目の当たりにし、島の保存を考える。2003年にNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」を設立し、現在は軍艦島ガイドを中心に講座、講演、執筆など精力的に活動中。

■軍艦島離島40年 人々の記憶とこれから 
1,800円/実業之日本社
■軍艦島―廃墟からのメッセージ 1,600円/亜紀書房
■軍艦島 住み方の記録 2,500円/軍艦島を世界遺産にする会 ※「軍艦島を世界遺産にする会」のみで販売 HP参照